舞台上のすみ花ちゃんを初めて意識したのは「黒蜥蜴」の早苗さんだった。
澄んだよく通る声に凛とした背筋の美しさ、
そして作品に彩りを添える「古き良き時代の香り」を醸しだすお嬢様役に瞠目した。

それが「地」ではなく「演技力」で作り出した人物像と知ったときもう一度天を仰ぎましたっけ。
葉子さんとエリスとティーナがすべて同じ「女優さん」でしかも初舞台からまだ4年という新人だから恐ろしい。

さて小夏ちゃんはというと。

みんなが口々に言いますよね、
すみ花ちゃんが上手い って。
そうなんです、上手いの。
まったく新しい別人格で舞台の上で自由に呼吸しているからほんと、この子は女優だ。

だけど今回は人気が凋落した女優の役で本来の若さや瑞々しさに必死に「汚れ」を塗りたくって舞台に上がっていた。
大変だっただろう。

だけど彼女の瑞々しい色気が好きなわたしはときおり覗く「ピチピチした存在感」を発見しては
「そうよねえ」
妙に嬉しかったり。

公称25歳・実年齢は目じりの小じわが語ってると語る銀ちゃんの台詞は無理がある。
隠しきれない若さゆえの瑞々しさが滲みでてしまう。
せっかく塗りたくった「落ちぶれ感」や「すさんだけだるさ」を清らかに浄化してしまう。
仕方ないよー。

25歳うんぬんは思い切って変更できなかったのかしら。



大体朋子さんとの対比が薄い。
どっちもどっち同じぐらいの年齢に見えるし、男の性を呼び覚ます朋子さんのセクシー加減も強調されていない。
映画版のように「実業家の娘と結婚したほうが箔がつく」と説明したほうが説得力がある。

すみ花力セレブのお嬢様に負けた成り上がり・元ミスキャンパス女優を描くことだって可能だろう。
そうすると銀ちゃんが朋子に走る理由が変わって面白くなくなるからやっぱり無理かな。



でもすみ花ちゃんはやっぱりすごかった。
なんと言っても 自分の演技に足をすくわれない



役は泣いても自分は泣かない。
役が泣いたときに一緒に泣くのは観客である。


という尊い舞台人精神。



野々すみ花ちゃんの演技力はなにが違うのだろう。
「見せ場がある」ことは一歩間違うと「やりすぎ」「自己陶酔」に走りがち。

その怖さをわかっていて細心の注意を払って気をつけているわけでもない、
すみ花ちゃんは「観客を泣かせる」をごく自然にやっているんだろうな。
だから彼女の演技に多くの人は「癒し」を感じるのだ。

観客のために舞台はあるという、客席のわたしたちにとって一番心地よい世界が彼女の根底なんだろうな。



そして。


大空祐飛というこれ以上はないほどタカラヅカな世界の人とがっぷり組んでもたじろがなかった。
これもすごい。



祐飛さんはどこまで行っても「タカラヅカの大空祐飛」。
泣きたくなるぐらい「タカラヅカ」していて、その世界で独特の花を咲かせる人。
ある意味すみ花ちゃんとは正反対の舞台の世界にいる人だ。


「娘役が男役に合わせる」のが宿命とはいえ初めて組んだ相手が「究極のタカラヅカ」。
とてつもなく高いハードルをいきなりでん!と置かれたようなものだ。


おまけにヤスと来たらこれまたすみ花ちゃんとばっちり同じ方向に生きる舞台人。
銀ちゃんとヤスが正反対の世界に生きる人ってどこまでハードル上げたら気がすむんだか。


すみ花ちゃんがそのあたりをどう感じていたか知る由もないが、



ヤスとの絡みは元から方向性が同じだが「彼をステキに見せる」に徹して、
銀ちゃんとの絡みは究極の正反対にいる「彼をステキに見せる」に徹して、



あきれるほどそれぞれの世界を自在に往復していた。


「銀ちゃん・ヤス・小夏ちゃんが同じ世界」でタッグを組むべきなのに
今回の再演は二つの混じり難い世界が懸命に歩み寄っていた。


その中心にいたのがすみ花ちゃんで、一番若くキャリアも乏しい彼女にそれを振った石田先生が無意識だったのか確信犯か 聞いてみたいような怖いような。

本当に本当にすみ花ちゃんは立派だ。


これから彼女がタカラジェンヌとして求められるのは華であり艶だが
天賦の才能を磨きつつ、世界にただひとつの大輪の花としてたおやかに芳しく咲き誇ってほしい。

「素晴らしい娘役」とは本来「上手い」と言われるより「すみ花の○○役がいい」と言われるべきだ。
どうしても今は「すみ花ちゃん上手い」と言ってしまうけれど、
彼女の持ち味がもっと色濃く芳しい香りに満ちて行き
「素晴らしい娘役さんと言ったら野々すみ花ちゃん」
に変わる日も絶対に来るだろう。


こういう素晴らしい娘役を生かす企画がタカラヅカにもっとあっていいと真剣に思います。


コメント