だってとにかく時間がない 花組全国ツアー「外伝ベルサイユのばらアラン編」6
2008年10月21日 SORAの世界〜観劇〜アランが一生分の片思いをするのはオスカルだ。
「彼女」を越える人に出会わなかったのは悲劇か幸運か
それはこの際問題ではない。
降りしきる粉雪の中、怨霊と化した妹ディアンヌを話し相手にひたすら回想にふけるアランの胸に宿るのはオスカルの面影、そして彼女を奪った恋敵は誰隠そう壮一帆のアンドレだ。
だがアランはわかっちゃいない。
壮ドレの何たるかを。
みわカルの女心を揺さぶったのはほかならぬ自分だったことを。
とうとうサイド・ストーリーの舞台化に踏み出した「外伝」シリーズ。
何度肩を震わせたことだろう。
歯をくいしばり、手の甲をつねって笑いを堪えるのは大変でしたよー苦しかったよー。
何がおかしいかって 純真無垢なんだもの。
この壮大なサイド・ストーリーには邪念がない。
「萌え」ゆえの3次元化ではない。
一生懸命、大真面目に、なんとかして 新作ベルサイユのばらを創造するあまりにサイドに足を突っ込んだことに気がついていない のだ。
「一番の変更点」がまさかサイドへの入り口だとは思わなかったのだろう。
主要キャラの相関関係をいじるとどうなるか、その恐ろしさが頭をよぎらないなんて無邪気すぎる。
出演者の暴走ぶりが輪をかけたこともあって、外伝という名のサイド・ストーリーは壮大な旅に出てしまった。
もう二度と戻って来れないよというところまで。
フランス大革命(バスティーユ陥落の年)から10年後、アランはひとり廃墟と化したベルサイユ宮に佇む。
戦闘で片腕を失った彼は「自由・平等・博愛」の旗のもとに共に戦い、鮮やかに散って逝った永遠の恋人オスカルとの出会いに思いを馳せる。
物語は一転過去の世界へ飛ぶ。
このあたりは怨霊ディアンヌちゃんもありし日の生き生きとした姿で参加すると思いきや、
人々の会話の中だけでその名が語られるだけ。
わざとそうしたのは「自ら命を絶った薄幸のディアンヌ」という記号から来る幽玄性(造語です)を損なわせないため、
ではなく、
ディアンヌが元気でぴちぴち(ブラックだが死語です)登場すると
1幕ものの収集がつかなくなるからだ。
ディアンヌとオスカルの邂逅は原作でも屈指の人間賛歌ストーリーだ。
対照的な2人の女性が互いの美しさに驚嘆と憧れを抱きあう、人間賛歌の図。
オスカルはディアンヌの可愛らしさ、瑞々しさに憧れ
ディアンヌはオスカルの豪華な美貌と存在感の鮮やかさにため息をつく。
神が創りたもうた「女性美」を瑞々しく豪快に描く見事な構図。
理代子先生の才が冴え渡る名場面だ。
ところが植田脚本はそれを何の迷いもなく捻じ曲げた。
えいっ!
人間賛歌はどこへやら「オスカルの素晴らしさ」を語る媒体として名前だけ登場するそれがディアンヌなのだ。
男たちが
「可愛くて兄さん思いでおとなしくて優しい」
と盛大にディアンヌを褒めちぎり、
返す刀で女たちが
「アランの妹で結婚が破談になって自殺したかわいそうなディアンヌ」
をしんみり涙で振り返り、
可愛いディアンヌが憧れたオスカル隊長がどれほどステキか
「ありし日のディアンヌと交流のあったひとびと」が入れ替わり立ち変わり記述する。
「ディアンヌが何回もオスカルと会ってはその人柄に惚れていた」とか
「ディアンヌがどれほどオスカルに感謝していたか」とか
「ディアンヌがどれほどオスカルの美しさに憧れていた」とか
記述する。
誤入力ではありませんよ、「記述」です。
何回「ディアンヌとオスカル隊長は」が出てきたが覚え切れません、
脇キャラたちが盛大に「口上」するから説得力も真実味もない。
「人物覚え書き」を読み上げているだけ。
観客はここでWhat’s OSCAR?!をクリアさせられるのである。
実にまずい方法、だけどそもそも時間がないから仕方がない。
オスカルっていう人がどれほど魅力的かここで「書いて」おかないとそのあとがおかしなことになるんです。
だってオスカルは主役の思われ人 ですから。
初めて見るひとがいても無問題、こんなイイ女に恋焦がれて独身を貫くなんてやっぱり主役(アランです)ってステキ!
で幕を下ろさなくちゃ。
全国ツアーの一幕ものの目的はソレでしょ?!
だから盛大に語らせる。
書かせる。
観客の頭に叩き込む。
客席は盛大に萎える。
だけど仕方が無い。
我慢するしかない。
なにしろ時間がないから仕方がない。
ああこんなに文字数使ってる。ここで道草食っている場合じゃない。急がなきゃ。
「彼女」を越える人に出会わなかったのは悲劇か幸運か
それはこの際問題ではない。
降りしきる粉雪の中、怨霊と化した妹ディアンヌを話し相手にひたすら回想にふけるアランの胸に宿るのはオスカルの面影、そして彼女を奪った恋敵は誰隠そう壮一帆のアンドレだ。
だがアランはわかっちゃいない。
壮ドレの何たるかを。
みわカルの女心を揺さぶったのはほかならぬ自分だったことを。
とうとうサイド・ストーリーの舞台化に踏み出した「外伝」シリーズ。
何度肩を震わせたことだろう。
歯をくいしばり、手の甲をつねって笑いを堪えるのは大変でしたよー苦しかったよー。
何がおかしいかって 純真無垢なんだもの。
この壮大なサイド・ストーリーには邪念がない。
「萌え」ゆえの3次元化ではない。
一生懸命、大真面目に、なんとかして 新作ベルサイユのばらを創造するあまりにサイドに足を突っ込んだことに気がついていない のだ。
「一番の変更点」がまさかサイドへの入り口だとは思わなかったのだろう。
主要キャラの相関関係をいじるとどうなるか、その恐ろしさが頭をよぎらないなんて無邪気すぎる。
出演者の暴走ぶりが輪をかけたこともあって、外伝という名のサイド・ストーリーは壮大な旅に出てしまった。
もう二度と戻って来れないよというところまで。
フランス大革命(バスティーユ陥落の年)から10年後、アランはひとり廃墟と化したベルサイユ宮に佇む。
戦闘で片腕を失った彼は「自由・平等・博愛」の旗のもとに共に戦い、鮮やかに散って逝った永遠の恋人オスカルとの出会いに思いを馳せる。
物語は一転過去の世界へ飛ぶ。
このあたりは怨霊ディアンヌちゃんもありし日の生き生きとした姿で参加すると思いきや、
人々の会話の中だけでその名が語られるだけ。
わざとそうしたのは「自ら命を絶った薄幸のディアンヌ」という記号から来る幽玄性(造語です)を損なわせないため、
ではなく、
ディアンヌが元気でぴちぴち(ブラックだが死語です)登場すると
1幕ものの収集がつかなくなるからだ。
ディアンヌとオスカルの邂逅は原作でも屈指の人間賛歌ストーリーだ。
対照的な2人の女性が互いの美しさに驚嘆と憧れを抱きあう、人間賛歌の図。
オスカルはディアンヌの可愛らしさ、瑞々しさに憧れ
ディアンヌはオスカルの豪華な美貌と存在感の鮮やかさにため息をつく。
神が創りたもうた「女性美」を瑞々しく豪快に描く見事な構図。
理代子先生の才が冴え渡る名場面だ。
ところが植田脚本はそれを何の迷いもなく捻じ曲げた。
えいっ!
人間賛歌はどこへやら「オスカルの素晴らしさ」を語る媒体として名前だけ登場するそれがディアンヌなのだ。
男たちが
「可愛くて兄さん思いでおとなしくて優しい」
と盛大にディアンヌを褒めちぎり、
返す刀で女たちが
「アランの妹で結婚が破談になって自殺したかわいそうなディアンヌ」
をしんみり涙で振り返り、
可愛いディアンヌが憧れたオスカル隊長がどれほどステキか
「ありし日のディアンヌと交流のあったひとびと」が入れ替わり立ち変わり記述する。
「ディアンヌが何回もオスカルと会ってはその人柄に惚れていた」とか
「ディアンヌがどれほどオスカルに感謝していたか」とか
「ディアンヌがどれほどオスカルの美しさに憧れていた」とか
記述する。
誤入力ではありませんよ、「記述」です。
何回「ディアンヌとオスカル隊長は」が出てきたが覚え切れません、
脇キャラたちが盛大に「口上」するから説得力も真実味もない。
「人物覚え書き」を読み上げているだけ。
観客はここでWhat’s OSCAR?!をクリアさせられるのである。
実にまずい方法、だけどそもそも時間がないから仕方がない。
オスカルっていう人がどれほど魅力的かここで「書いて」おかないとそのあとがおかしなことになるんです。
だってオスカルは主役の思われ人 ですから。
初めて見るひとがいても無問題、こんなイイ女に恋焦がれて独身を貫くなんてやっぱり主役(アランです)ってステキ!
で幕を下ろさなくちゃ。
全国ツアーの一幕ものの目的はソレでしょ?!
だから盛大に語らせる。
書かせる。
観客の頭に叩き込む。
客席は盛大に萎える。
だけど仕方が無い。
我慢するしかない。
なにしろ時間がないから仕方がない。
ああこんなに文字数使ってる。ここで道草食っている場合じゃない。急がなきゃ。
コメント