座付き役者の役目とは ドラマシティ公演「銀ちゃんの恋」11
2008年10月13日 SORAの世界〜観劇〜宝塚歌劇団は「座付き作者」を擁している。
大勢の登場人物が各自の魅力を存分に発揮できるよう、
「出演者」の得て不得手・似合う似合わないを考慮して企画から演出まで手がけるという。
「箱」にあわせた微妙な演出変更は当然のこと。
どんな「箱」にあっても「出演者が魅力的である」を求められる。
それらは サラリーマン演出家ならやってのけて当たり前だが、
いや本当に、トンデモなく大変な仕事だとあらためて感心する。
生徒にあてがきができること。
これは 今もっとも座付き演出家に求められることだと言っていい。
だがしかし。
「座付き演出家」にはもうひとつ大きな使命を持っているんだが、
ここのところすっかり「それ」がなりを潜めているというか
企画時点で「まずあてがき優先だ」と却下されるのだろうか、
トンとお目にかかっていないなと思うことがある。
昔は当たり前のように演出家は座談会などで口にしていたもんですよ。
年寄りの昔語りで申し訳ない。それは。
舞台人として生徒を成長させること。
はい。
銀ちゃんの恋 上演が発表されたとき、ふと思い出したの。
某大座付き作者の座談会でのコメント。
「 娘役Aはおとなしい役、娘役Bは活発で元気な役が似合うって言われてきたよね。いちどふたりをひっくり返してみたかったんだ。」
これはある組でダブルヒロイン制が敷かれていた時代の話だ。
甲乙つけがたい魅力的な2人の娘役を「トップ娘役」として活躍させていた某組の話。
公式にもどちらを「準トップ」とはせずそれぞれの「持ち味」にあった役を振って贅沢に使っていた。
だが「持ち味優先」を続けるとどうしても役柄が限定される。
新しい企画で「それぞれの持ち味を交換させる」ように敢えて その人の新しい魅力を引き出すように役を振った。
当時まだ大学生だったわたしは近い将来やってくる社会へのデビューを思い、
「ひよっこがちゃんとやっていけるのかな」
漠然と不安を抱えて学生生活の温かさに浸っていた。
「先生が育ててくれる」のはなんてありがたいこと、と本能で悟っていたんだと思う。
タカラヅカは○○代になっても「先生」が育ててくれる。いいないいなー
と羨ましかったのは本当だ。
「銀ちゃんの恋」上演の第一報時。
素直に「いい企画だな」と思った。
大空祐飛に「蒲田行進曲の主役」が当てはまるとは思えなかったからだ。
つか先生の原作も映画も通して見たことはないが「主役がトンデモ男だ」というのは「知識」として頭の中にあったからだ。
周囲を「スターさま」のオーラで振り回すゴーマン男で、
弟子も女も平気で泣かす。
それがどうした文句があるか。ん?
で生きている男。
で「存在」できる男。
銀ちゃんとは、
「人情」も「愛」もへったくれもない、
人には求めるくせに自分からは絶対与えない鬼畜キャラ(のはず)。
これがタカラヅカの男役にふわしいと言えるでしょうか。
いや言えまい。
クールだの美しいだの耽美だの陰性の美だのおよそ銀ちゃんからかけ離れたところが魅力のおおぞらゆーひにとってこれ以上の挑戦はあるまい?!
いいぞ石田先生!
どうぞ存分に大空さんをしごいて いたぶってください!
血の涙を流してうめく大空祐飛を観たいわけじゃない(ホントですってば)。
自分にないもので勝負する度量を大空祐飛に体得させてやってください。
と思ったのだ、わたしは。
大空祐飛という男役がいる。
「彼」は魅力的だ。十分魅力的だ。
だってわたしファンだから。
何ができないとかなにが苦手でどんな世界だと手も足も出ないとか
「ファンならちゃんとわかっている欠点」も含めて魅力的なんだ。
そういう「○○ちゃんに◎*※?☆▲をやらせたらダメなの!」
という大甘ファンはタカラヅカファンの王道である(断言)。
甘やかして褒めちぎるそれが「ファンが一番楽しい」愛で方だとわたしは思う。
だって「彼」はダーリンですから。
架空の世界の決して自分が存在することがありえない世界だけど間違いなくダーリン。
架空の世界の人だから「現実での対峙の仕方」は用いる必要はない。
叱咤激励だのわが子を谷底につきおとすライオン精神だの
そんなものなくたっていい。
もしダーリンが「ダーリンの資格を失う」ことがあったとしたら。
新しいダーリンを見つければいい。
もしくは
架空の世界なんて見なくなればいいんだ。
とわたしは思っている。
そこまで「鬼畜」精神であるがゆえ、「応援するとき」は自分にできる精一杯を尽くそうとは思っておりますが(ホントです)。
ファンは欠点を知っている。
苦手領域を知っている。
ソレをやらせたら魅力は半減、ヘタしたらキャパシティの狭さを露呈するだうという危機感を持っている。
だからこそ 銀ちゃんは企画サイドが大きく出たと思った。
大空祐飛が得意とする領域だけでは絶対勝負ができない役だ。
「銀ちゃんを魅力的にする」というのはそういうこと。
苦手な部分が得意な部分と同じぐらいの割合で共存する役のはずだ。
鬼畜ドSっていうのはそういうことだろう。
得意な領域は「男役としてのかっこよさ・魅せ方」を習得していること。
トンでも衣装だろうが妖怪アンテナだろうが何にくるまれても「かっこいい」と思わせるだけの力だ。
苦手な領域とは「汚い部分をさらけ出す」こと。
弱さ、ズルさ、身勝手さ、情けなさ。
誰だって持っているけど人には見せたくない部分をさらけだすこと。
それをやってのけることで
「得意な部分を差し引きされてもかまわない」
という勝負に出るだけの度量が大空祐飛にある?
石田先生と劇団企画部にわたしは聞いて見たかった。
ねえ、これ、大空にまだ成長してもらいます と言っているんですよね、って。
~まだまだ続きます。
大勢の登場人物が各自の魅力を存分に発揮できるよう、
「出演者」の得て不得手・似合う似合わないを考慮して企画から演出まで手がけるという。
「箱」にあわせた微妙な演出変更は当然のこと。
どんな「箱」にあっても「出演者が魅力的である」を求められる。
それらは サラリーマン演出家ならやってのけて当たり前だが、
いや本当に、トンデモなく大変な仕事だとあらためて感心する。
生徒にあてがきができること。
これは 今もっとも座付き演出家に求められることだと言っていい。
だがしかし。
「座付き演出家」にはもうひとつ大きな使命を持っているんだが、
ここのところすっかり「それ」がなりを潜めているというか
企画時点で「まずあてがき優先だ」と却下されるのだろうか、
トンとお目にかかっていないなと思うことがある。
昔は当たり前のように演出家は座談会などで口にしていたもんですよ。
年寄りの昔語りで申し訳ない。それは。
舞台人として生徒を成長させること。
はい。
銀ちゃんの恋 上演が発表されたとき、ふと思い出したの。
某大座付き作者の座談会でのコメント。
「 娘役Aはおとなしい役、娘役Bは活発で元気な役が似合うって言われてきたよね。いちどふたりをひっくり返してみたかったんだ。」
これはある組でダブルヒロイン制が敷かれていた時代の話だ。
甲乙つけがたい魅力的な2人の娘役を「トップ娘役」として活躍させていた某組の話。
公式にもどちらを「準トップ」とはせずそれぞれの「持ち味」にあった役を振って贅沢に使っていた。
だが「持ち味優先」を続けるとどうしても役柄が限定される。
新しい企画で「それぞれの持ち味を交換させる」ように敢えて その人の新しい魅力を引き出すように役を振った。
当時まだ大学生だったわたしは近い将来やってくる社会へのデビューを思い、
「ひよっこがちゃんとやっていけるのかな」
漠然と不安を抱えて学生生活の温かさに浸っていた。
「先生が育ててくれる」のはなんてありがたいこと、と本能で悟っていたんだと思う。
タカラヅカは○○代になっても「先生」が育ててくれる。いいないいなー
と羨ましかったのは本当だ。
「銀ちゃんの恋」上演の第一報時。
素直に「いい企画だな」と思った。
大空祐飛に「蒲田行進曲の主役」が当てはまるとは思えなかったからだ。
つか先生の原作も映画も通して見たことはないが「主役がトンデモ男だ」というのは「知識」として頭の中にあったからだ。
周囲を「スターさま」のオーラで振り回すゴーマン男で、
弟子も女も平気で泣かす。
それがどうした文句があるか。ん?
で生きている男。
で「存在」できる男。
銀ちゃんとは、
「人情」も「愛」もへったくれもない、
人には求めるくせに自分からは絶対与えない鬼畜キャラ(のはず)。
これがタカラヅカの男役にふわしいと言えるでしょうか。
いや言えまい。
クールだの美しいだの耽美だの陰性の美だのおよそ銀ちゃんからかけ離れたところが魅力のおおぞらゆーひにとってこれ以上の挑戦はあるまい?!
いいぞ石田先生!
どうぞ存分に大空さんをしごいて
血の涙を流してうめく大空祐飛を観たいわけじゃない(ホントですってば)。
自分にないもので勝負する度量を大空祐飛に体得させてやってください。
と思ったのだ、わたしは。
大空祐飛という男役がいる。
「彼」は魅力的だ。十分魅力的だ。
だってわたしファンだから。
何ができないとかなにが苦手でどんな世界だと手も足も出ないとか
「ファンならちゃんとわかっている欠点」も含めて魅力的なんだ。
そういう「○○ちゃんに◎*※?☆▲をやらせたらダメなの!」
という大甘ファンはタカラヅカファンの王道である(断言)。
甘やかして褒めちぎるそれが「ファンが一番楽しい」愛で方だとわたしは思う。
だって「彼」はダーリンですから。
架空の世界の決して自分が存在することがありえない世界だけど間違いなくダーリン。
架空の世界の人だから「現実での対峙の仕方」は用いる必要はない。
叱咤激励だのわが子を谷底につきおとすライオン精神だの
そんなものなくたっていい。
もしダーリンが「ダーリンの資格を失う」ことがあったとしたら。
新しいダーリンを見つければいい。
もしくは
架空の世界なんて見なくなればいいんだ。
とわたしは思っている。
そこまで「鬼畜」精神であるがゆえ、「応援するとき」は自分にできる精一杯を尽くそうとは思っておりますが(ホントです)。
ファンは欠点を知っている。
苦手領域を知っている。
ソレをやらせたら魅力は半減、ヘタしたらキャパシティの狭さを露呈するだうという危機感を持っている。
だからこそ 銀ちゃんは企画サイドが大きく出たと思った。
大空祐飛が得意とする領域だけでは絶対勝負ができない役だ。
「銀ちゃんを魅力的にする」というのはそういうこと。
苦手な部分が得意な部分と同じぐらいの割合で共存する役のはずだ。
鬼畜ドSっていうのはそういうことだろう。
得意な領域は「男役としてのかっこよさ・魅せ方」を習得していること。
トンでも衣装だろうが妖怪アンテナだろうが何にくるまれても「かっこいい」と思わせるだけの力だ。
苦手な領域とは「汚い部分をさらけ出す」こと。
弱さ、ズルさ、身勝手さ、情けなさ。
誰だって持っているけど人には見せたくない部分をさらけだすこと。
それをやってのけることで
「得意な部分を差し引きされてもかまわない」
という勝負に出るだけの度量が大空祐飛にある?
石田先生と劇団企画部にわたしは聞いて見たかった。
ねえ、これ、大空にまだ成長してもらいます と言っているんですよね、って。
~まだまだ続きます。
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